昭和39年12月25日 夜の御理解
(頭切れ)
するのじゃない信心は。喜びを求めてのものじゃ、信心というものは。今日は何々部会だからいかんにゃらん。夜の御祈念の時間になったからお参りせんにゃらんと、ね。これはお勤め信心じゃ。信心は勤めてするのじゃない。信心はどこまでも喜びを求めてのもんでなかりゃにゃいけん。そこで、あたくし達が、その喜びの求め、求め方、絶えず自分の心の中に喜びをたたえられておる。ならばありがたい。
ところがなかなかそんなわけにはいかん。不平不足が出たり、イライラがあったり、取り越し苦労があったり、不安、焦燥、心配があったり、そういう時には必ず喜びが欠如しておるときである、ね、と悟らしてもらにゃいかん。はぁ今こそ喜びかけておるとき。中村喜久世さんじゃないけれども、ね、喜びがなくなっておる時には、いつもくよくよしとらんならん。だからくよくよしとらんならんときには、喜びが欠けておる時と悟らしてもろうて、そして喜びの追求をしなければいけない。
そこで、『話を聞くばかりがのうではない、わが心からも練りだせ』とおっしゃるのは、そいう時に練りださにゃきゃいけんと思う。話を日ごろ聞いておる。『話を聞くばかりがのうではない。わが心からも練りだせ』と。練りだす時は、そういう自分の心に今喜びが欠けておるという時に練りださにゃいけん。そこで私は、ひとつ、本気で神様に打ち向こうてみることだと、ねえ。
言わずに祈ってみる事だと思うね。そしてこうする事が本当だという事を、言わば、なきなきでも勤めながら、それをならさせてもらうことだね。例えば御用なら御用でも、もう今日はいっちょん仕事がない。いっちょん喜びがない。生き生きしたものがない。それでもなくなくでもです、例えば言わずに黙って祈りながらです、こうする事が本当だという実意を持って、それをなさせていただきよるうちに、ほんと喜びにふれることができる。いや、与えられるわけである、ね。
話を聞くばかりがのうではない。わが心からも練りだすということはです、そういうときに私は練りだすんだと思う。何を練りだすかというと、喜びを練りだすんだとこう思う。そこには、今まで不平不足を思うておった、イライラしておったと、ね。くよくよしておったと。そのくよくよが、いうならそのもやもやがです、その喜びが頂けると、不思議なくらいに、もう取り越し苦労が取り越し苦労がバカのように、こんなおかげの世界というものを知っておるのに。
時々こういうことがあるということがわかる。お勤め信心じゃいけません、ね。信心はどこまでも勤めてするものじゃない。喜びを求めてのもの。その喜びで、を求めて、ださせていただくのだけれども、私どもはもう、まあいうならそのその喜びに欠けておる事が多い。そこに喜びを求めての信心。そういう信心を、私は生き生きした信心というのではないかとこう思うですね。
おかげを頂かなければなりません。